History
 

 

 

 

その7
知られざる歴史への招待
 

 


1598年の朝鮮の役  明国の人質とは誰だったのか?

人質送還の大役を果たしたのは?

 

 

    −−朝鮮の役−−

薩州島津氏は、文禄・慶長と二度も出兵している。が、しかし、それは島津氏にとって、朝鮮国と明国との国交が無くなることを意味し、貿易に因って支えられる薩摩の財政を圧迫することに繋がった。手痛い打撃であったことは、想像できる。最後まで抵抗し、朝鮮出兵を拒んだのは、当然であったろう。

1598年(慶長3年)の朝鮮の役に於いて、明国大将の董(とう)一元は、副将の茅国器(ぼうこくき)と共に兵20万を率いて、島津義弘(松齢公)、家久父子の守る泗川の新塞に攻め寄せて来た。互いに一歩も退く気配はなかった。その頃、従えて行った待医の高陽氏許三官が病に倒れ貫明公(義久)は、理心(郭国安)と交替させていた。

薩州の寺山久兼を恐れてか、6月から9月になっても、両軍の戦況は、一歩も動かずに、硬直状態は続いた。

そこで、義弘は、理心(郭国安)をよび、スパイを命じたが、なかなか、うんと言わない。強制して、やっとのことで理心を、これに従わせた。

祖国を愛する理心は、密かに自分の名前を謎解きにして、明軍に密書を送り知らせた。諸葛繍は、その謎を解き、郭国安の名を参謀の史世用に報せた。それを聞いた史世用は、飛び上がって喜んだ。それは、理心(郭国安)とは以前、薩州坊津で会ったことがあった。二人は、祖国の為に尽くそうと誓い合った仲であることを、諸葛繍に告げた。そこで、密書を理心に送り、薩摩軍の内部からの裏切りを頼んだのであった。

理心(郭国安)は、9月29日に、寺山久兼の守る望津の陣に、放火することを約束した。薩摩への裏切りを約束したのであった。

9月29日、望津の陣に火の手が上がり、それを見た総大将の一元は、勢い付き済晉江(せいしんこう)を渡り、望津を取り、麻貴は永春の砦を取り、翌日には、昆陽の砦も取ってしまった。が、成功したと思われた焼討ちは、実は、望津の陣に火を放ち、三つの外砦を捨てて明軍を誘き寄せる為の、義弘の策略であった。理心(郭国安)は、義弘と史世用の両者を裏切る事無く、その難を乗り切る為に、望津の陣に火を放ち、三つの外砦を捨てて、明軍を誘き寄せる策略を提案したのではなかっただろうか。明との貿易を考えると、元々乗り気のしない戦であった義弘である。理心(郭国安)の提案した策略を用いたのではなかったかと推察する。

ところが、明軍はその策略に引っかかり、大敗するのであった。

坊津には、多くの異国人達が訪れ、そして住み着き帰化して、その地に骨を埋めた。そこには、語り尽くせない程の物語が存在したであろう。

 

 

    茅国器(ぼうこっき)の弟、茅国科は人質となる

泗川の戦に大敗した明軍大将の董(とう)一元(いちげん)から、参謀の史龍涯(しりゅうがい)と通事の張昂(ちょうこう)(孫次郎)を使者にして、島津義弘に対して茅国器の弟茅国科を人質に送るからと、講和を申し込んで来た。義弘は小西行長や寺沢正成に相談して、その求めに応じることになった。

張昂(孫次郎)と史龍涯は、人質の国科を引き連れて、薩州坊津に再上陸して来た。国科を無事に引渡し、任を無事に終た史龍涯らは、坊津から明国へと帰帆して行った。

義弘は、国科の身柄を寺沢正成に預けることとなり、彼の元へと送迎させた。暫くして、明国に送還せよとの、徳川家康の命が下った。

国科は伏見(京都)にあったが、身柄を再び義弘に渡されることになり、薩摩に送られて、義弘の手で明国に送還されることになった。この茅国科の送還は、対明貿易を財源としたい島津家にとっては、またとない国交回復のチャンスでもあった。

茅国科の母国への帰国は、その後、薩摩の政情不安、即ち庄内の大乱(伊集院忠真が都城で、火蓋を切って大きな大乱となった)や関ケ原戦前夜の中央情勢の切迫した状況等により、延び延びになっていた。国科は望郷の念にかられ、送還の係であった島津忠長に4度も書を送って、一日も早い帰国を願い出ていた。

中央政情の安定した頃、国科は母国明国へと送還されることとなった。

 

 

     鳥原掃部助宋安(とりはら、かもんのすけそうあん)

その使命は、明貿易に精通していた坊津の豪商、鳥原掃部助宋安に与えられた。宋安は、通称を喜右衛門尉(じょう)とも言い、食禄250石を教給せられ、従5位以下に叙せられていた。

朝鮮の役、大阪の陣の時も従軍して、海軍と軍需品の輸送が、主な任務であった。鳥原家の先祖は、坊津が近衛家荘園の時代からの海商であり、代々、八坂神社の神事をも務めていた。その鳥原家は、八坂神社の隣に現存して、子孫の方が住んでいる。

宋安は、大船二隻を艤装し、坊津の荒くれ男ども百余人を引き連れて、茅国科送還の重責の為に、東シナ海に乗り出して行った。

それは、1600年慶長5年8月、時に秋の季節風の吹き込む頃であった。南海路を選んだ宋安は、途中、通い慣れた琉球に立ち寄った。福州の梅花津に着いたのは、その年の暮れ辺りであったとされる。それから、彼らは百余日を経て都に至った。やっと3年目の秋になって、宋安等の船で手厚く保護されて母国福州の土を踏んだ時の気持ちを国科は、次のように詠んでいる。「此より、国科は幢蓋(とうがい)前に導き、宋安は車に乗りて行く」と。百余日を重ねた送還の道程は、宋安ら乗組員の親切、優しさ、丁寧さを極めたものであり、友情の念からこのような唄を詠んだのではなかろうか?

宋安ら乗組員達は、兄の国器宅に来客として1ヵ月余りにも及ぶ待遇を受け、ある時は、皇帝神宗から祝宴の席を設けて呼ばれた。楽人の唐楽の音を聞き、酒盃を傾けた。高砂の謡を歌った宋安に、祝宴の席にあった人達からは、その日本語の意味が解らず、ホームシックであんな悲しい唄を歌っているのだとの誤解を受けた。「この唄は、何の歌か」と聞かれた宋安は、[五風十雨、億兆仰望]と謡の心を即座に答えた。

皇帝神宗は、その深き意味に感謝し、宋安の坊津への出帆に際して、沢山の贈り物をくれた。日明の国交断絶の時期ではあったが、鳥原宋安に対して、毎年2隻ずつの、貿易船の往来をも許可した。それは、宋安に対する真実の報謝であった。

皇帝神宋に謁し、国器等の深い感謝に送られて、薩州坊津に帰帆して行った。坊津に無事帰帆した宋安は、早速、島津義久に報告をなし、義久はその旨を大阪は徳川家康に報告した。意気揚々と帰国して、重責の使命を果たした宋安は、坊津の人達からは大歓迎を受けて、得意げであった。・・・とある。

宋安は、坊津の人達に、毎年2隻ずつ明の貿易船が来ることを話した。が、そこには、罠が待ち構えていた。邪魔をする族が現れた。

泗川で店を開いて島津家の軍需品の補給にあたり、その縁で、義弘が鹿児島と山川に居宅を与えて住んでいた、堺の商人である伊丹屋助四郎は、その話を聞き、一儲けすることを企んだ。海賊等を呼び集めて、航路にあたる硫黄島の海上を従来して待ち受けていた。

季節風の吹く、翌年の6年の春から夏にかけてのことであった。明の福州船は、約束を違えずやって来た。海賊らは、これを捕えて、明人を皆殺しにして財貨を奪い取り、船は焼き捨ててしまった。伊丹屋助四郎は秘かに、奪い取った唐物を売りさばいた。薩摩は、福州船の来るのを待っていた。いくら待っても福州船の来ないのを不思議に思い、探索していた薩摩藩の藩庁の耳に、唐物を売りさばいている出所が伊丹屋だという噂が入った。伊丹屋は、直ぐに捕らえられた。伊丹屋は、厳しい拷問に絶えられず、とうとう白状してしまったのである。薩摩は、伊丹屋とその仲間数人を、張り付けの極刑に処した。薩摩は、関係回復の為に、明国へと伊丹屋や海賊達の首を差し出した。がしかし、伊丹屋や海賊達の首を明国へと差し出して、誠意を見せた薩摩の国際的信用は回復されなかった。明国はこれに懲りて、福州船の来航は2度となかった。

折角、鳥原宋安がもたらした成果も、私利私欲に目が暗んだ伊丹屋のような海商の海賊行為で、ふいとなってしまた。この事件さえなければ薩摩と明国は、もっと二国の関係が益々発展して、得るところが大きかったと思われる。真に、歴史に汚点を残した話である。

 

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